私の新聞奨学生体験記「ここはまさにカイジの地下帝国か…!?」
2度に渡り、新聞奨学生のメリット、デメリットや実態の記事を書きましたが、私の体験記を書いてみたいと思います。
一度目の失敗
新聞奨学生を選んだ理由
私の兄が上京した際に新聞奨学生制度を利用していました。
それを見ていた当時の私は深く考えず、兄と同じように上京して新聞奨学生として専門学校へ通う道を選んだのでした。
(兄は家の経済的な理由で新聞奨学生を選んだようでした)
私が最初に選んだ専門学校はいわゆるゲームを作るプログラムのコースでした。
しかし、その頃は「ゲームを遊ぶ」「ゲームを作る」違いもよく分かっておらず、東京や親元を離れる自由や憧れもあったんですよね。
学校を辞めた理由
私はプログラムが苦手で適正が合わない部分や、新聞配達との両立、東京で自由に暮らす、給与も出るので好きなゲームを買って遊べる、当時は格闘ゲームブームで東京では新潟の地元と違って対戦相手が多くいるなどの誘惑が多かったのですw
結局は学校はすぐ半年も経たないうちにやめてしまいました。
しかし、新聞配達の契約期間は専門学校の2年間ありますから(途中退会できません)、その残りの1年半は新聞配達をして暮らしていたことになります。
なお、本当は某新聞社の奨学生制度(販売店)の評判が良いと聞いていたのでそこにしたかったのですが、自分が進学する専門学校がその新聞社と契約していないようだったので、仕方なく別の新聞社の奨学生を選んでいたのでした。
その私が最初行っていた新聞販売店が以下の漫画のようなところでした。
実話ですw
さすがにここはあまりに酷いと思って、色々相談や調べたところ、当初選びたかった新聞社でもできたようでした。
やられたw
ちゃんと聞いてみれば良かったですねw
とは言え、さすがに新聞社を変えることにしました…。
また、途中で同じ新聞奨学生で大学受験の勉強をしている浪人生もいて、感化されたのか、大学受験を目指そうと一時期予備校に通ったこともありました。
結局途中で行かなくなったんですけどね…。
仮に新聞奨学生で浪人して大学に受かったとしても、また4年新聞奨学生をしないといけないと思うと絶望だったので…。
なお、このときはもう学校に行っていなかったので、どうせなら給与も上がる新聞代の集金もしていました。
ただ、社員の中ではホームレス一歩手間のような人もいて、お客さんからもらった新聞代が入った集金バッグをそのまま持ち逃げしてましたね…。
結局その後、お店の人が見つけて再度同じ店で働かせていましたが…。
出典:https://bunbunmarumaru.blog.so-net.ne.jp/
他、関東でも数十年に一度は起きる大雪の日も経験しました。
新聞配達は原付バイクに乗っているのですが、さすがに雪では進めないので、昭和初期のようにタスキを担いで新聞を配ったりしていました。
朝刊の配達が終わったのはもうお昼前の11時頃だったような気がします。
めちゃくちゃ大変でしたね。
そして2年終え、やっと新聞配達の生活も終え、一度自分を見直すためや休養のため新潟の地元へ戻りました。
地元でアルバイトを1年くらいして、やはり自分は東京で住みたいと思い、東京で一人暮らしのため再度上京しました。
1、2年程はフリーターとして生活していました。
再度新聞奨学生の世界へ
しかし、そのままアルバイト生活をしていても先がありませんし、ふとデザインを学んで仕事をしたいと思いました。
きっかけはあまり明確ではなかったと思いますが、イラストをちょっと描いていたことや、母親が仕事でPOP作りが得意だったのでその血を引いていることもあったのか、ポスターなどのデザインをしてみたいと思ったのです。
プログラムがダメならデザインと思ったこともあったかもしれないですが、何かを作る仕事をしたかったんですよね。
学校も本当は美大に通いたいと思ったのですが、まず美大に合格するために予備校などに通わなくてはいけないですし、そのお金もありません。
では、新聞奨学生をしながら浪人生として美大の受験勉強をする方法も考えましたが、例え合格したとしても大学は4年制なので、引き続き5年くらいは新聞奨学生をしないといけません。
それに美大にストレートで合格できるかどうかも分かりませんし、そういった美術芸術系や理系は文系とは違って、実習の時間が多いと聞いていたので新聞配達との両立も厳しそうと思いました。
なので、さすがにそれは現実的に無理だと判断しました。
そこで専門学校ならば入試も緩いですし、2年制で済むので、デザイン系の専門学校を選ぶことにしたわけです。
二度目の挑戦
この世の因果とは
なんと私が配属された販売店は、昔に兄が行っていた新聞配達店だったのです。
兄は残念ながら新聞奨学生で学業との両立、就職はできませんでした。
これはさすがに因果や運命を感じましたね…。
成功できなかった兄のためと、一度新聞奨学生で挫折した自分のためにも頑張るしかないと…!
そんな想いがあったのですが、さて、配属されたお店の当初の新聞奨学生はまともに勉強していないようなヤンチャ系な人が多かったのがまずショッキングでしたね…。
いわば学校も行っていなく、合コンやクラブなど女遊びしているようなDQN系の若者が多かったです。
正直、普通の人からするとまともに話も通じないので関わらないのが吉でした。
とは言っても、向こうは先輩ヅラを強調してきて何かと言い掛かりや文句も言われましたね…。
真面目にやっている人が面白くない、肌に合わない、ムカつくというのもあったかもしれませんが…。
ただ、1年でそういった人はほとんど就職もしなかったようですし、お店からいなくなったので助かりました。
こっちはただ真面目に勉強したいだけで、新聞配達と両立するだけでも必死なので、余計なトラブルなんて送りたくもないんですよね…。
学校生活では
学校生活ではなんとクラスで新聞奨学生は私一人だけでした。
これもかなり辛かったですね。
新聞奨学生はかなり特別な辛い環境なので、同じような境遇や目的を持った仲間を作りたかったのですが、それを共有できるクラスメイトもできませんでした。
クラスメイトと話をしてみると「そもそも新聞奨学生って何?」「大変そうだね」くらいなものですw
そりゃ普通の学生からすると、親が学費を払ってくれるのは当たり前と思っているでしょうから仕方ありませんw
新聞配達店での先程のような人間関係やその狭い世界、睡眠不足でメンタル力も落ち、クラスでも共有できる仲間もいない、自然にネガティブ思考になりつつあります。
学校の授業も15時頃には夕刊の配達のため、一人だけ途中で授業を帰らなくてはいけません。
クラスでも孤立している感じを受けましたね。
そういったことや、元々私は陽キャラではなくゲーム好きなオタクなので、余計クラスでは自然とカースト的に下に位置する存在になりましたw
別にクラスでは嫌がらせなどもありませんでしたが、クラス内で勝手に引け目やコンプレックスを感じていたこともあり、より自分の中でネガティブ思考となっていくのでした…。
その中でも数人、仲間もできましたが、そのほとんどは途中で学校にも来なくなり、私はクラス内でもますます孤立していく感じを受けました。
…何百万円という学費を親が出してくれてるんだから来なさいよw
それでも今回の新聞奨学生はなんとしてでもやり遂げないといけない!と、毎日新聞配達をしつつ、ちゃんと毎日学校に通って課題もこなしていました。
当時はもう何より必死だったんでしょうね。
とは言っても、やはり悩みはあり、当時の担任に相談してもあまり分かってもらえなく辛かったですね。
合宿授業での出来事
いつだったか覚えてませんが、学校の授業で那須での1泊2日の合宿授業がありました。
最初はどうせ新聞配達で行けないだろうなぁと思いつつも、せっかくの授業ですし、なんとか休みの調整ができて参加することができました。
もうこのときは日常の暗黒のような地獄から桃源郷に抜け出させたような気分で、これが現実か!?と頭の中が真っ白のような状態でしたねw
他の生徒はよくある修学旅行気分だったりして、若い男子は女子と仲良くしたいといった生徒もいましたが、私はもうそんなことなどどうでも良く、例えそれがつかの間だとしても、新聞配達の地獄の日常から抜け出せたことで、これが現実か?と思う程の非日常的な幸せを感じていましたw
まさに地下帝国から地上に上がったようなカイジのような状態ですw
やっちまったー!
合宿の宿舎では温泉もありました。
入る前に一旦どんな感じだろう?と一人様子を見に行ってみました。
しかし、このときの私は本当に新聞生活から抜け出した思いがいっぱいで放心状態、頭が全然回っていなかったのですw
ドアを開けて脱衣場を見てみます。
女子数人と目が合いました。
私「……………。」
女子数人「……………。」
私は何事もなかったようにそっとドアを閉じます。
やっちまったー!
ここは女子風呂じゃねーか!
ホント、頭が回ってなくて、どっちが男子女子風呂かも見ていなかったんですよね。
なお、良くも悪くも脱衣場にいた女子は裸になっていなく、その後も女子から何も言われませんでしたが…。
これは漫画なので少し盛ってますがw
まあ、私もクラスでカースト的に下の位置、もう新聞生活で疲弊していてクラスメイトともあまりコミュニケーションを取っていなく、ライトに話せるような関係でもなかったので、何も言われなかったのもあると思いますが…w
しかし、間違って女子風呂のドアを開けた後はもうクラスでやっていけないと絶望した程ですw
合宿の夜では、よくある修学旅行のように男子の一部が女子と仲良くなりたいのか、女子の部屋に遊びに行ってたようですが、私はそれよりも新聞配達店から抜け出してちゃんとぐっすり布団で寝られることがもう大満足でした…w
ホント、カイジのような気分でしたよ…!w
その後の学校生活
新聞配達と学業の両立はめちゃくちゃ大変でしたが、それでも今回こそは成し遂げたいとの思いで、学校もちゃんと出席していました。
2年目の担任が私の相談や悩みを真摯に聞いてくださったので本当に救われました。
ありがとうございます、N先生。
とは言っても、当時メンタルは鬱になっていたんじゃないかと思います。
この暗黒のような日常が辛いと感じ、新聞配達をしている途中、マンションから飛び降りで死のうと思ったこともありました。
それでも自分が死んだら家族が悲しむということでなんとか留まることができましたが…。
就職活動
就職活動もほとんどやる気も出ませんでしたね…。
でも先程の担任が「ダメ元でもいいからとにかくまずは一社受けてみろ」と言ってきたのでとりあえず信用して受けることにしました。
そこはデザイン会社ではなく、いわゆる印刷会社(の中にある兄弟会社の製版部門。DTPオペレーション業務)で気が進まなかったのですが…。
それでも業界的に最大手の会社です。
しかし、そこがなんと受かったんですよね。
本当はデザイン会社などで働きたかったわけですが、担任からもこの先こんな大企業で働く機会もないだろうし、大手の組織で働き方を学んだりすると良いと言われ、納得しました。
また、私も既に新聞奨学生生活で疲弊していたので、もうこれ以上就職活動をするエネルギーもなかったこともありますね…。
卒業制作発表会の当日でまさかの…!
デザイン系の学科だったので、卒業制作として各生徒が作品を作っての発表会がありました。
その最後の肝心な卒業作品発表会がある当日、もう学校に行く寸前で、しばらくほとんど無かった新聞の不着(届け忘れ)をしたときがありました。
さすがに「今日は遅刻できないので自分が届けに行くのは勘弁してほしい」と店長に相談したのですが、受け入れられず、自分で不着を届けに行くことになりました…。
よりによって、肝心なときにこういうことはあるもんなんですね…。
ただ、運が良かったのか、不着のお客さんの家が通学で利用している電車の途中の駅の側だったのです。
なので、私なりの少ない知恵をなんとか使い、不着用の新聞を持って普通に学校に行く服装やカバンで電車に乗り、途中その駅で下車して新聞を届けて、そのまま電車に乗って学校に行きました。
…なんとか卒業作品発表会に間に合いましたよ><
新聞奨学生卒業式
各新聞社では卒業する新聞奨学生を集めて卒業式を行います。
私の販売店では、唯一私一人だけでした…。
同じ販売店での奨学生はやはり学業との両立ができなく、途中で学校に行かなくなったりしてましたね…。
場所は確かその新聞本社の育英会のビルで行われ、道中は店長の車に乗せてもらったのですが、ほとんど会話もなく、「おめでとう」「頑張ったな」という一言さえもなかった気がします。
店長が奨学生とはあまり仲良くしたくなかったようですし、そこは前記事でも書いたように、新聞配達店の社員の人は元々は新聞奨学生だったけど学業との両立ができなくそのまま社員になった人も多いので、他者の成功が面白くないと思っていたかもしれませんね…。
総評・まとめ
正直、新聞奨学生としての学業との両立は辛かったです。
文中書きましたが、まさにカイジの地下帝国のような世界でした…。
もう二度とやりたくないですし、今の自分にはもうそんなパワーもないと思います…。
ですが、それでも当時はがむしゃらに、追い込まれていたからこそやるしかないという思いで、成し遂げることができたと思います。
確かに新聞奨学生は過酷ですが、学費も工面するのが厳しい状況でのチャンスを与えてもらったことには感謝しています。
この記事は、別に苦労話を美談にしてお涙頂戴するつもりや、成し遂げた自分はすごいなんて言うつもりはなく、世の中にはそういった世界、新聞奨学生というものがあることを知っていただけたらと思っています。
また、今だからこそ当時の体験記を多少面白おかしくも書いていますが、その新聞奨学生のメリット・デメリットや実態を詳しく書いた記事もありますのでこちらをご覧ください。
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