映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」を見てきました。
吃音(きつおん)者の自分は見なくてはいけない映画、と思っていました。
吃音とはいわゆる「どもり」のことです。
なお、原作の漫画は以前に買って読んだことがあります。
吃音について
いきなり吃音といっても一般的に馴染みが無い人が多いと思うのでちょっと引用文や説明を書こうと思います。
連声型(連発、連続型)
発声が「お、お、お、おは、おはようございます」などと、ある言葉を連続して発声する状態。
伸発
「おーーーはようございます」と、語頭の音が引き伸ばされる状態。
無声型(難発、無音型)
「ぉ、……(無音)」となり、最初の言葉から後ろが続かない状態。
出典:wikipedia
wikipediaだと「吃音は脳神経の機能不全によるもの」らしいです。
自分自身のことを含めて考えると、喋りたい言葉が脳には出てきているんだけど、喉のあたりでつかえて物理的に声が出てこない感じだったり、意図せず「お、お、おはようございます」と最初の言葉が連発で出たりもするんですよね。
そうしたどもりのことを吃音といいます。
予告
あらすじ
高校一年生の新学期。喋ろうとするたび言葉に詰まってしまう志乃は、自己紹介で名前すら上手く言うことが出来ず、笑い者になってしまう。ひとりぼっちの高校生活を送る彼女は、ひょんなことから同級生の加代と友達になる。ギターが生きがいなのに音痴な加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。文化祭に向けて不器用なふたりの猛練習が始まった。コンプレックスから目を背け、人との関わりを避けてきた志乃と加代。互いに手を取り小さな一歩を踏み出すが――。
映画としての感想
二人の演技、青春時代の描き方
良い映画でした。
青春映画として瑞々しく、特に志乃役の南 沙良さん、加代役の蒔田 彩珠さんがすごく良かったです。
演技はもちろん、原作を知っていて先の展開が分かるからか、中盤二人の歌と演奏をバックミュージックに仲良く笑顔で楽しんでいるシーンに思わず涙してしまいました。
……青春時代って良いですね。
特に南さんは美少女なのに、泣くシーンでは2回も鼻水まで垂らす演技は力が入っていて良かったです。
歌の選曲も良く、歌謡曲の「翼をください」「あの素晴らしい愛をもう一度」やブルーハーツの歌が昭和の世界観、二人の青春時代に実に合っていました。
カラオケのシーンで志乃が翼をくださいを歌うシーンはまさに志乃本人と歌の内容がリンクして良かったです。
コンプレックスとの向き合い方
本編では原作から敢えて「吃音」という単語は出していませんが、吃音持ちの志乃だけのコンプレックスの描いているわけではありません。
志乃は普段の喋りはどもってしまいますが、歌を歌うときはどもらなくて上手なんですよね。
また、志乃と一緒にバンドを組もうと言い出したギターを弾く加代は、歌が好きなのに音痴ということでのコンプレックスを持っていました。
文化祭でバンド名「しのかよ」として一緒に舞台に立つはずが、志乃が途中から入った菊池が嫌で演奏に不参加するにも関わらず、それでも加代は一人でも檀上に立って歌うのに強い子だなぁと感じました。
普通の作品ならば、そこで志乃が戻って一緒に演奏となって感動を誘うのが定番です。
しかしこの作品では志乃は逃げてしまって参加しないのですが、そこがリアリティがあって良かったなと思います。
萩原利久さんが演じる、バンドに途中から参加する菊池は空気の読めないうざさが上手く表現されていました。
志乃は以前菊池から吃音をからかわれたトラウマや、菊池が一緒にバンドに入り、加代と仲良く音楽の話をしていたことことから疎外感を感じてします。
それまで志乃と加代の「しのかよ」バンドは仲良く上手くいっていたのに、そうした菊池の参入によって志乃の感情が悪化し、人間関係が崩れてしまうのは共感ができました。
作中では掘り下げていませんが、彼はアスペルガーやADHDっぽい感じがしましたね…。
彼も彼なりに友達を作りたいが故にふざけて笑いを取ろうとしているのは分かりますが、逆にそれが空回りして周りからうざい奴として悪循環になっていたわけです。
世の中誰しもがこういったコンプレックスや(目に見えづらい)障害を持っているかもしれません。
映画は吃音者の志乃が主人公ですが、加代や菊池も含めてコンプレックスを描いた作品で、各人がそれにどう向かい合うかが描かれていた映画でした。
先生の対応
先生は「深呼吸、深呼吸。名前くらい言えるようになろう!頑張ろう!」と言います。
客観的に見るとその通りなんですが、当事者からすると辛い言葉です。
先生も悪気があったわけじゃないですが、「名前くらい」「頑張ろう」その何気ない一言がよりプレッシャーもかけて志乃を傷つけるわけです。
親の対応
今作では母親だけの登場で父親は出てきません。
母は志乃のためにちょっと怪しい吃音療法のセミナーを紹介します(もちろん志乃のためを思ってです)。
たまたまそのとき志乃のメンタルが良くなく、志乃は嫌になりその母の好意を無下にしてしまいます。
先生同様に「治す」というプレッシャーが当人を追い詰めるわけです。
鬱に対しての「頑張れ」という言葉は禁句とも言われますが、「治す」ことよりも当人に共感して寄り添うのが一番なのかなと思いました。
ラストについて
ラストでは志乃が自分自身と会話をします。
机にジュースを置いてくれた自分に対し、どもりながらも「あ、あ、あ…ありがとう」と笑顔で言葉を発します。
ここは原作と違った記憶がありますが、自分を受け入れたラストとしてこれも良かったと思います。
こういったコンプレックスはなかなか完治はしないもので、結局は自分と向き合いながら一生付き合っていくしかないんですよね。
考え方、気の持ちようで、そうした自分も受け入れることが良いのかなと思います。
映画として気になったところ
重箱の隅をつつくような細かいところですが、気になったところを幾つか。
女子高生のカバン
出典:https://store.shopping.yahoo.co.jp/
昭和の世界観の表現(おそらく25年前くらい?)ですが、そのときの女子高生って上の画像のような青い鞄だったんでしょうかね…?w
作中では携帯電話も出てこなく、公衆電話で電話をかけたり、昔ながらのミニコンポがあったりするんですよね。
おそらく25年前、原作者が学生時代だった頃と察するのですが…。
ロケは静岡県沼津市だったとのことで、当時の静岡の女子高生はどうだったんだろう…w
志乃のメモ書きが読めない
志乃はどもってしまうため、加代が「それなら紙に書けばいいじゃん」と言います。
そこで志乃がメモ帳に書いて見せるシーンが3回ありましたが、自分の座席の場所なのか照明のせいなのか、画面に写った文字が全然見えなかったので、アップのカットなどで文字が見えやすくなっていたら良かったですね。
母との会話がない
確か原作もそうだったと思いますが、志乃と母親が会話しているシーンが無いんですよね。
自分の経験として相手によって吃音も出るときとそうでないときがあります。
吃音は緊張していると出やすい場合があるのですが、そういう意味で身内である母との会話がどうなのか気になるところでした。
…と、気になる点も描きましたが、これらは些末なことであり、総じて良い映画だったと思います。
舞台挨拶
初日の舞台挨拶が面白かったです。
特に南さんのエピソードで、沼津のご飯が美味しくて食べ過ぎて丸くなってしまったというのが微笑ましいですねw
なるほど、確かに劇中ではちょっと丸い…w
舞台挨拶では劇中と違ってスラっとしていてより一層可愛いなぁw
自身の吃音について
さて、その2では自身の吃音者としての体験や考え方を書いてみたいと思います。
その2へ続く。